東京大空襲から70年

2015年3月10日で東京大空襲から70年が経ちました。
約10万人の方が犠牲になりました。
これもまた、風化させてはいけない負の記憶だと思います。

去年のものではありますが、
前のブログに書いた祖父の話をこちらにもコピーしました。

周りすべてが火の海で、
「なぜ生き残れたのか不思議だ」と、祖父は言っていたそうです。

今はメディアが発達しているので、
興味ある方はぜひ空襲のまとめサイトを検索してみてください。
(ショッキングな画像もあるのでここには載せませんが…)

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【祖父と東京大空襲】

1945年3月10日、B29の爆撃により、東京全体が炎に包まれた。

集団で爆撃機から逃げる人々に容赦なく、焼夷弾が落とされる。

米軍の目的は、民間人の一掃にあったのだ。

逃げ惑う集団から離れてひとつ、爆撃機へみずから向かうかのごとく走っていく家族があった。

若い夫婦と、幼い男の子と、女の赤ん坊の4人である。
母親に抱えられた赤ん坊は、火傷を負っていた。

これが後に私の母親をさずかる、永川家(仮名)である。

なぜ、この若い旦那はこれまで徴兵されなかったのだろう。

それは彼が医者だったからだ。
医者はここ東京に残り、怪我人を看る義務があったのだ。

しかし医者というのは血を見ても顔色一つ変えなかったり、
むしろ内臓なんかを見て悦に浸ってしまうような者もいるもので、

変わり者、変人扱いされるのが常であった。

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人を助けておきながら好奇の目で見られるなんて、
なんとも「救いがたい」職業である。

さて、この変人がまた変人と呼ばれるようなことをしている。

いや、それも最後になろうか―

なぜ、避難する集団から逆走したのか?

「飛行機は集団を狙う。逆方向に逃げるぞ!」

妻も、夫の言うことをよくぞ黙って聞きいれたと思う。

人は生命の危機にさらされた時、冷静さを失ったとき、
恐らく皆同じ方向に逃げるだろう。それが本能なのだから。

しかしこの変人…もとい祖父は冷静さを失わなかった。
妻を、子供を守るために走りぬいた。

祖父の考えは的中した。

永川家の知人は、皆帰らぬ人となった…

それから数年後、次女の伯母が生まれ、
さらにまた数年後、三女となる私の母が生まれた。

あの時幼かった伯父は祖父と同じく医者になった。
あの時火傷を負った伯母は、薬剤師になった。

友を見放したと思われたのだろうか?
自分だけ生き残ったと思われたのだろうか?

祖父は私が物心付く前に旅立ってしまったので、
その心中を問うことはできない。

これも母から聞いた話をまとめたものだ。

それでも私は祖父に感謝している。

あなたの冷静さと勇気がなければ母は生まれていないし、
私はここにいないのだから。

E.N.の孫 Mina』

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